この節は第一章の中でも中核に位置する。
「誠に、欠乏の有無は、創造と創作の本質的な相違点といえよう。」
創造と創作、というキーワードが出てきた。コースにおいては、神の創造した現実は完璧であり、いかなる欠乏もそこにない。よって欠乏のあるものは神の創造した現実ではなく、我々の創作した幻想である。コースは、この矛盾に満ちた人間と世界を神の作った完璧なものとしてつじつまを合わせようとすることは一切しない。
「『今の状況と違って来たら、きっともっとよくなるはずだ』-これが欠乏の感覚である。」
ポジティブな考え方、というものがある。「前向きに考えて頑張っていればきっと将来は明るい」
コースの視点からみると、これも欠乏の感覚を表現した生き方にすぎないことになる。この世界は欠乏を表現した舞台だ、ということになる。では、コースにポジティブ・シンキングと対応する発想がないかといえばそうではない。ゆるしがもたらす奇跡によって、心から恐怖を取り除き、今を生きること。それは、この世界にありながら神の完璧な現実を追体験し、やがて現実に帰るという目的を人生に与える。
コースの視点からみると、これも欠乏の感覚を表現した生き方にすぎないことになる。この世界は欠乏を表現した舞台だ、ということになる。では、コースにポジティブ・シンキングと対応する発想がないかといえばそうではない。ゆるしがもたらす奇跡によって、心から恐怖を取り除き、今を生きること。それは、この世界にありながら神の完璧な現実を追体験し、やがて現実に帰るという目的を人生に与える。
「『失楽園』という意味合いもある、あの『分離』が生じるまでは、何も欠乏することはなかった。」
「あなた方が自分自身で奪い去らない限り、必要性が生じることはなかったのだ。」
分離とは、神からの分離を指す。我々の意識には完璧な愛なる神との一体感はないが、コースでは、この意識の状態を分離といっており、人間の意識自体を新訳にある放蕩息子の状態として捉えている。
ここは失楽園の神学をイエスが再度、修正している箇所である。旧約の失楽園神話は、この世界にある不幸の原因は、人類の罪に対する神の罰であり、不幸は神の意志である。対して新訳の放蕩息子の喩えにおいては、不幸とは人類が勝手に神から離れて欠乏状態に陥って生まれた状態である。つまりコースにおいて我々の不幸は、世界を創った神の意志が原因ではない。神から自己を分離した我々の意志に不幸の責任がある。
なお、この話はメタフィジックな次元における真実としてとらえてほしい。コースではこの宇宙は幻想なので、幻想のレベルに置いて不幸の原因について反論しても、コースのイエスと議論が噛み合うことはない。
「つまり、どう自己認識するかに基づいて、自分なりに必要の順序付けがあって、行動は生じているのだ。」
メタフィジックな次元に対して、我々が行動する次元は形而下に属する。すなわち、生まれた瞬間から我々は数々の必要を感じ、行動して対処していくのが人生なわけだが、「自分は欠乏している」という自己認識からすべての必要が生まれ、すべての行動が生まれている、ということである。神からの分離が生んだこの原初の欠乏感が、幻に過ぎない形而下の世界にリアリティをあたえているということになる。神の息子が放蕩の旅に出て落ちぶれたところまでを現代的なロジックで語っている訳である。
「神から分離した、という感覚こそが、治さなくてはならない本当の欠乏である。」
何度も引用されている有名な文。我々はじぶんの人生を改善するためにあらゆる努力をしているが、この世界は永遠にほころび続ける砂の城のようである。恋愛であれ、道徳であれ、科学であれ、そして民主主義であれ、すべて人生を改善しようとする試みといってよいが、無数の顔を持つ必要という名の欠乏を埋め続けて人生はタイムリミットを迎える。だが、落ちぶれた放蕩息子のなすべき解決策はただひとつ、父のもとに帰ることだった。
「あなたはあらゆる必要の種類に基づいて、そしてその必要のレベル差に基づいて自分自身を無数に分裂させてしまったのである。」
「あなた方は統合が進むに連れ、ひとつに戻ってゆく。」
われわれの意識は自分と他人に分かれている。自分の知覚の届かぬところで、他の脳に苦痛が走っても、自分の脳に苦痛が走ることはないし、他人の幸福感が完璧に共有されることもない。コースは、数十億に隔たれた人類の意識を、神の子のひとつの心に発症した精神分裂、多重人格障害として捉えている。
たったひとつの必要とは、神から分離した感覚を治療する必要のことである。それがこの壮大な統合失調の病因だからである。だから、コースでは我々の日常的な悩みの相談のようなトピックは一切出てこない。
たったひとつの病因である神からの分離感を治療すれば、あらゆる必要にせまられて苦しむ欠乏の人生が癒される、という見解は、コースを貫く原理となっている。この唯一の原理をコースでは「あがない」と呼んでおり、パウロ神学のそれからは想像もつかない語意に変わっている。
「この思念は本来、原初の次元で直すべきものである。知覚できる次元になってから間違いを直せるとしても、原因はその前にあるからだ。」
「だが、今のあなた方はそうする他ないのだから、ボトムアップのやり方で上の次元へ向かって、徐々に修正を進めてゆくべきだ。」
メタフィジックな次元で冒したたったひとつの間違いがすべての不幸の源で、この間違いさえ直せばよい、といわれても手のくだしようがなく、途方にくれる他ない。そこで結論されてしまったら、不二一元論の思想を勉強したらすべてが解決するよ、と教えられるようなものである。我々の意識が知覚できるレベルでゆっくりと心の深奥にある病原を治療してゆきましょう、というプラクティカルな治療方針がここで示されたわけである。
「究極的には、空間も時間と同様、無意味である。どちらも迷信に過ぎない。」
実存主義という思想がある。我々は、自分の意志ではなく勝手にこの世界に放り出されて、この世界の理不尽に苦しめられ、あらゆる必要から努力を強いられ、必ず死に敗北して終わるのが人生の現実だ、といった哲学である。「人生の不幸は、メタフィジックなレベルで冒した我々の過ちに原因があり、すべて自己責任だ」というコースの説明に、われわれがムッとするのは実存主義的な感覚をもって生を送っているからだが、コースの実存主義に対する切り返しは、「そもそも人生(時間)も世界(空間)も迷信が生んだ幻想に過ぎない」という身も蓋もないものとなっている。なおつたない私の知識でも、時間が幻想であるという考え方は、相対性理論に反していないし、空間認識を幻想とする考え方も量子力学の世界観と反していないはずである。
「この世界で正しい目的がほしいなら、神への懐疑を治療するために世界を活用することだ。」
コースにおける人生の目的、世界の意味がここで宣言されている。神への懐疑を治療する、ということは神との一体感を回復するために人生を使う、ということである。それは完璧な愛との一体感を徐々に回復することを目標に、自他にある差別感・分離感を漸減するように世界と関わってゆく、ということである。
ざっくりいうと、神の愛を信じながら、ゆるすことで隣人を常に愛せるようになって、その幸福を通じて神の愛をすこしずつ実体験してゆきましょう、というクリスチャン的な人生観である。ぐるりと回って世間でも健全な人生観とされる生き方と一致してしまった訳で、ここらへんがコースの妙味といえる。
「恐怖心の影響は、決して自分でコントロールできないものだ。恐怖はあなたが創作したものであり、自分の創作を現実と信じ込んでいるからである。」
世界は現実ではない、と言われたときに感じる生理的な反感は、我々が人生で体験してきた恐怖感のリアリティから来ている。それに対してコースは、「あなた自身の妄想なんだから、あなたにとってリアルなのは当たり前じゃないか」と諭す精神科医の趣きである。この精神科医は、人類の意識を突き動かしている恐怖を治療しようとしているのであり、日々、幻想から来る恐怖をゆるし、幻想の影響を無くしてゆくプロセスを奇跡と呼んでいる訳である。
「完璧な愛は恐怖を追い払う。もし、恐怖があるならば、完璧な愛などないことになる。だが、― 完璧な愛のみが現実である。もし、恐怖があるならば、現実にはない状態に包まれるのだ。」
この完璧な愛は、神そのものを指す。新訳にある「神は愛なり」というイエスの思想を突き詰めたものがこの詩句のロジックといってよい。このロジックは思想的には不二一元論と呼ばれるもので、コースの共同書記ウィリアム・セットフォードがコースはキリスト教のアドヴァイタ・ヴェーダンタである」と評したのはこれによる。相違点は、コースは思想に留まらず、体験的に把握する事(すなわち奇跡)に主眼を置いており、ゆるすことを現実回復のメソッドとして追求している点である。
また、恐怖が神の現実を覆い隠しているのだから、恐怖を完全に取り払う事が神の現実を回復する道であるとしている点は、精神医療において、被害妄想が統合失調症患者の幻覚を呼び起こしているとする点と対応しており、これが「コースはキリストによる人類の精神医療だ」とされる所以となっている。
0 件のコメント:
コメントを投稿