2011年2月2日水曜日

第一章 Ⅱ「啓示、時間、そして奇跡」をUP。

フレンドリー訳を始めてみたはいいものの、50の原理に対してひとつひとつネタを考えるのがしんどくて(というかマジックに関するネタが浮かばなくて)さっそく中断してしまっていた。気をまぎらわすために、俺訳の方を再開したが、こっちはけっこうふつうに進んだ

・ ・ ・

冒頭にある「肉体的な親密感」とはセックスのことである。これは人間のエゴが、失われた一体感から来る欠乏感を、肉体を通じて回復しようとしているという、イエスの精神分析である。心の欠乏を肉体レベルで解決しようとする心理プロセスの最たる例としてセックスを例に挙げて講義を開始している、ということである。対して、イエスが講義する、心に起きる奇跡は、心にある欠乏感を心のレベルで回復する治療である。

これはコースの共同書記の二人、ヘレン・シャックマンとウィリアム・セットフォードがフロイト派心理学のエスタブリッシュメントであったことにも関係がある。フロイトは、性衝動と自己保存の狭間で苦しむ意識として人間のエゴを捉えており、第一次大戦以降は、この二元性を生の欲求(性衝動)と、死の欲求(攻撃衝動)でエゴのダイナミズムを説明するようになった。

精神分析学において、エゴを支配する生の欲求(性衝動)に対する再解釈からイエスの心理学の講義は始まっている訳である。そして性衝動の対となる攻撃衝動は、人を裁く感情として取り扱われ、その病因が何か、後の節で説明されることになる。

奇跡の50の原理の直後、すなわち実質的な講義の始まりがこの第一章 Ⅱ「啓示、時間と奇跡」なのだが、イエスはこのようにど真ん中のストレートを初球に選んでいる。この核心をいきなり突くスタイルはコースを貫いており、新約聖書でも見られるあまりにも率直なイエスの豪速球はACIMでも遺憾なく威力を発揮している。

「啓示」という概念も、神とのダイレクトなコミュニケーションは決して言葉にできるものではない、と断言しており、常識の意味合いと異なっている。そして奇跡は手段であり、目標は啓示であると定義し、啓示は言葉にできないゆえ講義の対象とならないので、奇跡を体験的に学習することで、自分で啓示に到達せよ、という立場を取っている訳である。これは啓示を受けた教祖と、啓示を受けられない信者、という宗教の基本に反しており、奇跡講座が独習用の講座とワークブックにまとめられている理由のひとつといえよう。

そして奇跡講座の思想的に最もユニークな箇所となる、「時間」が登場する。奇跡講座においては、時間は我々の知覚が生み出した幻想に過ぎず、現実には存在しない、不必要なものである。我々の意識にある、過去の悔恨と未来の不安が奇跡を通じて治療されてゆくに連れ、時間のリアリティは揺らぎ始め、やがて不要な幻想として体験的に認識されるようになる、ということである。時間については、Wikipediaを参照されたい。